これは労作だ。そういう印象を持った。
小説版に説得力を持たせるため、著者が意識してやっていると想像したことを挙げてみる。
1. 台詞に出ない、登場人物の思いをいちいち書く。
放映版のアニメでは語られていない背景や、登場人物についての書き込みが多い。一方、全体の文章量はライトノベルのそれなりといったところなので、エピソードは端折られ、メカものなのに技術系の描写は少ない。字数の多くは登場人物と、その心の動きに割かれている。しかし、一人称でないアニメで登場人物が心の声をだだ漏れさせ続けると、視聴者にとっては相当キツイ時間になると想像する。小説版だからこそ使える手段だ。
2. 登場人物の行動を変える。
グルーデックが中央派遣の士官達から戦艦を奪取するために彼らを"戦死"させるところとか。小説版を読めるくらいに育った子には合理的な行動と映るだろうが、アニメでこれをやったら、子供から「この艦長はいい人なの?悪い人なの?」と聞かれた親を困惑させるに違いない。自分が親なら、うっかり「父ちゃんにもわからないな。お前はどう思う?」と答えて、「質問を質問で返すなよ!」って怒られるところ。
3. 「こういう少年なのだ」と言い切る。
上記の2つでもうまくない時には、人物に対する評価を作者が誘導する。正直じいさんは正直じいさんであるが故に正直なのだ。そういう設定なのだ。小説では珍しくない記述だ。しかし、残念だが『ケロロ軍曹』みたいに明示的なナレーターがいないアニメでは無理。そのようなナレーターを設けたとしても、今度は「UEは正体不明の敵と言ったな。アレは嘘だ」的な、叙述トリック以下の問題が発生しかねない。登場人物は嘘ついてもいいが、ナレーターは視聴者を欺いてはいけない。仕方がない、イナズマイレブンみたいに実況入れるか。
文章で書かれてるとスルーしそうになるんだけど、アニメにした時、どういう絵面になるかを想像するとやっぱりムリめなんじゃないのと思えてくる。失敗学の研究者が分析とかしてくれないかなぁ。