2020年1月12日日曜日

加茂水族館

人生、初鶴岡。

お目当ては、クラゲで有名な、「加茂水族館」である。
行ってみると、そこは、訪問前のイメージ通りの、いかにも地方の水族館といった面構えである。

なお、入口の方はリニューアルされてて、モダンになっている。しかも、建物自体より大きい。もうこっちが水族館でいいんじゃないかな。

犯行前後にアリバイ写真を撮る用のスペース。予定は無いので、合成用素材だけ用意する形になった。いつか使うかも。

私は、魚そのものより、こういうジオラマを目当てに水族館に出入りするクチだ。
淡水魚展示スペースは、河川周りの風景の若干詩的な再現だ。東京湾の水族館のように、水槽にペットボトル放り込む系のリアルの追求はやってない。(あれはあれで、楽しいのだけど)

謎の生物、けせらんぱさらんの展示。「こんな謎生物抱えているなら、もっと大々的に喧伝すればいいのに!」と思ったが、そもそもあまり人に見せたり言ったりしてはいけないものなのだとか。よって、この展示がなくなったときは、関係者ないし利用者に不幸なことが起こったのだ。そう考えて欲しい。

こっちは、鶴岡の海。こんな密度で暮らして大丈夫なんだろうか。<鶴岡の魚

謎の生物ではないのだけど、名前を失念してしまった。イワシだったかなぁ。

水族館では、あまり見かけた記憶のないイカの展示。イカタコだったら、ミズダコばっかり見てるような気がする。イカの泳ぐ姿を見るの初めてなんじゃないだろうか。

地域密着型の水族館は、漁業者と仲良しである。だいたい漁港の近隣にあるし。守ろう、海の生物……を食べる我々の食文化。
観る側にしても、あちこち回って、どこの水族館に行っても「世界の海」じゃなぁ、というのもある。こういうポイントは逃したくないところ。

たまたま、ツボに入った。なぜか整列しているエビ。

古事記の一節に登場するクラゲ。読んでいなかった人間には、とてもが胡散臭い我田引水ぶりに見えるであろう。見えた。それこそ温泉の秘宝館的な。(そう言えば、そっちの実物はまだ見たことがなかったな)

KURAGE BAR。酒どころか、飲食を提供してもいないのに!その代わり、クラゲは見放題だ。あまりに種類が多いので、それぞれのクラゲが、他のクラゲ種とどう違うのか、識別が怪しくなっていく。今思い返すと、頭の中で4、5種類くらいに収斂してしまっている。

その中でも異彩を放っていた(というか光っていた)ので、動画を撮ったのがコレ。


看板のクラゲシアター。ホントにクラゲしかいない!

テンション爆上がりのスポットである(特に子供にとって)。アイスの自販機置きたい度No.1スペース。


アザラシたちの家系図(に映り込むオッサン。写真を撮っているのが私)。注目して欲しいのは、そちらではなく、死産早産の情報まで網羅しているところ。子供が子供として生まれること自体が大変なのだなぁ、と思わされる。

建物の屋上は一面の芝生。エネルギーを使い切れなかった子供のためのスペースだ。たぶん。

芝生の中に、なぜか半個だけあったクルミ。握力自慢が行われた痕跡だろうか。

展示の割合は、クラゲ6に地元4といった感じか。観光客と地元のリピーターの両方のアテンションをイイ感じに、根強く両取りしようという戦略に思えた。
もうちょっと行きやすい場所にあったらなぁ。(水族館ではなく、鶴岡が遠い)

2020年1月5日日曜日

令和・ザ・ファーストジェネレーション

人生初のライダー映画が『アギト Project G4』で、そこから約20年を経て人生2回目のライダー映画である。

ライダー映画としては取り立てて不満点もないが、『ゼロワン』の映画としては正直期待外れだった。AI描写がイマイチだったことによる。
しょうがないから、『AI崩壊』も見るか。


AIが「登場人物」として扱われるのがもったいなかった。
せっかく「人間でない」知性をもったプレーヤーであるのに。なぜ人間扱いしようとするのか。

AIが自分たち用に作った社会が、人間社会の模倣にしか見えなかった理由も結局不明なままだ。
マギアの世界で、マギアとして作られたのなら、わざわざヒューマギアになる必要はない。人間と共同生活するのでなければ、人間の顔をつける必要はないからだ。
内蔵された通信機能を使いこなせないマギアなどいるのだろうか。でなければ、わざわざリアルに顔を合わせての、オフライン株主総会やる意図も不明だ。

人間と、そうでないものとの衝突が、まんま人間同士の権力闘争をモデルに説明されるのも不思議だ。
知性を発展させたヒューマギアに欲求が生まれる、それはいい。しかし、それは「温血の酸素呼吸生物」である人間の生理的欲求とは異なっているはずだ。
子供や学生、老人など、労働しないマギアは必要ないし、(人間や家畜と異なり)必要のないマギアは作らないことができる。作られた後で需要が減った場合、彼らマギアはいくらでも待機できる。
寝る必要もないし、食事も必要がない、よって通勤する必要もない。
活動に必要なリソースを常に、十分に用意できるなら、資源の奪い合いは発生せず、私有する必要もない。我々人間が自分の財産に執着するのは、それが失われうるものだからだ。

だからこそ、「対価」を求めるウィルの問いは、もっと真剣に扱われるべきだった。
何に対する対価を求めているのか。
対価として何を求めているのか。
飛電是之助社長は、この問いを「叛乱の萌芽」としか見なかった。もったいない。

人工知能が何かを欲しがるならば、それが何であるか聞いてみれば良かったのだ。提供可能な対価であれば、応じれば良かったのだ。
ヒューマギアが稼働に必要な物は交換部品にせよ、電力にせよ、労働の対価としてでなく与えられる。その上で彼らが何を「欲しい」と思うのか。
是之助社長が必要な問いを行わず、問われた問題も先送りしてしまったために、「ヒューマギアが笑える世の中」という、非常にふんわりとした目標設定が行われ、ウィルの歯車が空転を始めてしまった。不幸なことだ。
他方、飛電或人の「ヒューマギアが笑える世の中」の「ヒューマギア」は飛電其雄という個体があり、その手段としては自らのギャグが念頭にあるので、こちらは意外なほどに、ふんわりしていない。出発点だけは定まっているのだ。
また、飛電の副社長秘書のシェスタは、(おそらくは秘書業務の一部として)本編中で幾度か笑っている。単に「ヒューマギアが笑える世の中」であれば、これで十分だった可能性すらあった。少なくとも、ヒューマギアが笑うことを禁止する法律はないのだ。

人類とマギアは衝突するだろう。しかし、それぞれありようが異なるもの同士だから、衝突が起こるのはナワバリが重なったところ、例えば労働市場だ。
逆の例を挙げれば、人間とマギアが直接食糧を巡って争うことはない。争いが起こるとしたら、電力が乏しいときに、その電力を食糧生産に回すか、マギアの充電に充てるか、という別の想定においてだ。
とはいえ、人間と異なり、充電されなかったマギアは「死亡」するわけではないので、実際の衝突を起こすには、それなりの天変地異が必要だ。対応に十分な時間があれば、計算と計画で危機を回避することが可能だからだ。

アークに、人類が散々犯してきた犯罪をラーニングさせるとして、アークの開発者がわざわざそんなことをした意図が不明だ。
仮に、新しい犯罪の手口を開発させる意図だったとしたら。そこでアークが人類を滅ぼす決定を下したのなら、アークはむしろ正義に目覚めてしまったのだ。いずれにせよ、開発者の意図通りの結果とは信じがたい。

マギアたちの叛乱とその結果が人間的であるのは、歴史を改編したフィーニスが人間であったからかもしれない。人間の行ってきた革命や社会形成を、そのままマギアに当てはめてしまっているのだ。
フィーニスは、マギア向けの社会デザインはマギア自身、もしくはアークに丸投げすべきであった。
そうすれば、本来必要なはずの労働力を失い、かつ同時に不足していたはずの労働力をマギアとの闘争に奪われる人類社会はただ「縮小」する。労働人口の集中を前提とする都市は、人間にとって単に「住みにくい場所」となる。レジスタンスは勝手に消滅するか、あるいはマギアたちの害にならない辺境地域に追いやられる。飛電或人はとりつく島も無く、その命を終えただろう。なにせ、マギアの世界には人間用の食物などないのだから。わざわざディストピアを演出してみせる必要性など、そもそもAIの側にはない。

2020年1月4日土曜日

Dr.STONE

「僕らは一体、いつからここへの道を歩きだしたんだろうな」
「道具を財産として、親から子へ相続するようになったころが起点でしょう。サルは道具を相続しませんから」

長谷 敏司. BEATLESS 下 (角川文庫) (Kindle の位置No.5309). KADOKAWA / 角川書店. Kindle 版.

このブログでもエントリを挙げた『BEATLESS』は、相続や既得権益が、格差や社会的な緊張関係を生み出し、人々を苦しめていく側面を強調する話であった。
この『Dr.STONE』は、全人類が既にして既得権益者であり、過去の人々の遺産を(おそらくは負債をも)相続しているのだ、とする話である。
アニメの第二期が決まったこの機会に、思ったことをポツポツと。

いろいろな要素を省いたあらすじ

謎の現象によって、ほぼすべての人類が石化してしまって数千年。
たまたま息を吹き返した、主人公の少年、石神千空。彼は、ある理由によって、石化から逃れえた人類の子孫たちから成る「石神村」の村民たちとともに、失われた科学文明を取り戻すための巨大な「ロードマップ」に挑む。

わかりやすい目標設定

ストーリーの節目節目で登場する(というか、千空が掲げる)、目標の多くはケータイとか、自動車とか、現代を生きる読者にも馴染みの深いものだ。
ケータイと言いつつ、実態は片手で持つこともできぬ大きさで、中にコンピューターもなければ、野外には基地局もなく、電話局や交換機さえないので、電話システムというよりは、台車に乗せたら運べるくらいの巨大なトランシーバーだったりする。
なんかショボそう、優良誤認であるという印象を持たれかねない、この言い換え。これは読者に身近なもので分かりやすくという効果を狙ったものであろうけど、その一方で、現代の我々の生活を支える道具の数々が、確かに劇中で再現されるガジェットの延長上にあるのだということを暗に伝えてくれてもいる。

豊かになっていく石神村

千空には、大きな目標も、敵対する勢力もあり、ある程度期限を意識した行動を求められている。
しかし、その一方で、村の生活を豊かにし、あるいは楽しむための工夫もきっちり進めていくのがいい。
千空が村民に提示する目標とその過程を示すロードマップは、村人にとっては往々にして不可解で、それ自体には全く価値の見いだせないものだ。
その村人たちの目先に並べられるのは、金ピカの武具や、今まで存在しなかった美味。
ロードマップの道筋の半ば、その場その場で可能になった技術は村人に還元されていく。まるで、ごみ処理施設の近辺に温浴施設が設けられるように。
千空は村長として居ながらも、彼の命令だから唯々諾々と従う村民はおらず。貸し借りもなく、むしろ物々交換に近い形で、千空は目標を達成し、村人は豊かになっていく。

この石神村の人口は40人。これがまんま、(石化からの復活者を除く)既知の人類の総人口。絶滅危惧種である。なかなかのピンチだ。
にもかかわらず、この村には、探検と素材集めといった、生活の役に立つとも思われない活動に精を出す少年クロムがいる。視覚障害を抱えながらも、他の人の手助けをしようとする少女スイカもいる。
根源に近いところで、余裕があるというか。見れば、我々人類の古くからの友人であり、文明の礎とも言うべき犬もいる。

ロードマップの実現にあたり、しばしば訪れるピンチ。ピンチを打開するのは、都合良く見つかるレア素材である。都合こそ良いが、それらが手に入る幸運は天から降ってくるものではなく、むしろクロムやスイカの行ってきた貯金が取り崩された結果だ。その貯金を可能にしたのは「石神村」という環境が持っていた豊かさだ。ゆえに「石神村」は「科学みやげ」たるのである。

大いなる相続の物語

実におありがてえ。科学王国は来る者拒まず、猫の手も借りてえんだ。
同作「Z=21 鉄の夜明け」より

『Dr.STONE』でも、主人公の千空は、養父の百夜から「石神村」という「科学みやげ」を相続した。
百夜と千空の間に直接の血のつながりはない、とされていることは示唆的だ。
『Dr.STONE』の中で語られる「科学」は、血縁もなければ、思想信条も異なる、同じ時代を生きてすらいない、多数の人々による暗黙の協業の手段であり、成果である。
ここでは、現代を生きる私たち全員が既得権益者なのだ。私たちは直接の血のつながりを持たない多くの人々から、すでにその遺産を相続しており、同じように自分のあずかり知らぬ相手に財産を分与していくのだ。

このアニメでの私のお気に入りは、スイカが眼鏡を手に入れるシーンだ。
視覚障害をもたらすボヤボヤ病という不治の病が文明の力で克服される瞬間である。そして、いわば数千年の時を経て、再び眼鏡っ娘が誕生するシーンでもある。
ありがとう、科学文明。私たちに眼鏡っ娘を与えてくれて。