2021年1月31日日曜日

帰還

六郷用水の流れを追って、帰宅するミッションも、前回でとうとう大田区までたどり着いた。
6年くらい前から住んでいる我が家まで、あと少し。


前回は多摩川台公園に入ったが、六郷用水(丸子川)はそのまま公園の側面(南西側)を流れている。


……と思ったら、吸い寄せられるように南西に向かってしまった。ここ(東急多摩川駅付近)で多摩川に合流するのだ。丸子川はここで一巻の終わり。

一方で、奥に通じる穴も空いているようだ。増水時にはさらにその先に行くこともあるのだろうか。もしかしたら逆に、周辺から雨水をここに集める流れが設定されているのかもしれない。


「その先」にあたる南東方向に進むと、水の流れにあたるような場所に植え込みが続いていく。


マンホールにしては若干小さいように思えたが、「六郷用水物語」のロゴがついたものが。この意匠は今まで見かけなかったので、ここから区が復元・整備したエリアが始まるのだろう。


「六郷用水の跡」ときた。わかりやすい。……と思うのは、六郷用水というワードが頭に入っているからだ。 玉川上水、井上陽水、六郷用水、川瀬巴水……。いろいろと紛らわしいモノが世の中にはある。


六郷用水の流路図。大田区に入ってからの分岐が激しい。今までの道程を振り返って見ると、むしろ何故わざわざ狛江辺りから取水しているのか不思議な感じだ。「安定して取水できる場所があるところ(高低差とか流量とか)まで遡ったらこうなった」みたいな検討があったのだろうか。


下流方向には水の流れが、いかにも再現しました風に再現されている。もともとの上流に当たる丸子川は先ほど多摩川に合流してしまっており、ここに流れているのは付近(田園調布せせらぎ公園)の湧水とのこと。で、傍らには「手づくり郷土賞」。二ヶ領用水沿いでも見かけたものだ。


次は「東京の名湧水」ときた。それよりも、水路を縦に分割する一列に並んだ杭の機能が気になっている。あちこちで同じ形のものを見かけるのだが。


水車小屋……というには、小さすぎる。水の流れから動力を得るものではなく、逆に田んぼに水をくみ上げるための、足踏みの水車らしい。そう言えば、先の「六郷用水物語」マンホールのロゴにもこんな形のモノが描かれていた。 ジャバラと呼ぶらしい(どこに蛇腹要素があるのかはわからなかった)。 読んだ本には「現在は電気で回転させている」とあったが、全く動いてなかった。緊急事態宣言下だからかなぁ。


交差点を一つ越えて市街地に入ったら、道幅が狭くなり、復元水路もそれなりに。

そのまま進んだら、洗い場の跡というところがあった。しかし、この木の柵越しに洗い物をしていたのだろうか。不便そうだ。昔の人は辛抱強かったということなのだろうか。


人工の滝というか、噴水があった。湧水をイメージしたもののように思われた。


先ほどあったのと同じ「六郷用水の跡」。側面にも何か文章が彫られているようだが、花崗岩?のテクスチャに溶け込んでいて全然読めなかった。下にまばらに落ち葉みたいなものが落ちている。落ちているというか、落ち葉の形のタイルが埋められているのだ。


六郷用水の中を泳ぐ鯉。あちこちで見かけたので、割とカジュアルに飼われているようだ。


おっと、ここで問題発生。

水を流すはずの用水路に上り坂?ムリです。私は低きに流れたいのだ。


「女堀(おなぼり)」と呼ばれた、難所の一つだったらしい。(観蔵院付近に解説板)
あまりに工事が進まないので、女性まで動員したというのが名前の由来の一説である。(イメージ図)

ちなみにもう一方の説は、この難関を乗り切るにあたり、女神様のお告げに従ったからというもの。(で、この女神様が前回の多摩川浅間神社のコノハナサクヤ様)

一度、山を切り通して水路にしたものを元に戻す際、周囲の高さに合わせた結果がこの坂道である、ということなのだろうか。


さすがに、上り坂を無理矢理通すこともできないからか、復元水路は一旦終了。
六郷用水の痕跡は、この場所以降、歩道の植え込みや、不自然に狭くて細長い緑地に、時折現われる解説板という形に変わっていく。


区内の史跡としての、六郷用水における重要ポイントの1つ、「南北引き分け」のあった場所(千鳥緑地児童公園付近)。
ここで、北堀(池上を経て、平和島・大森方面)と南堀(蒲田・六郷方面)の2方向に大きく分かれるのだ。
ここまではほぼ一本道で運ばれてきた水。ここから先でようやく大田区の隅々に行き渡り、農業に生活に利用されていく。そんな感じの場所。


今日の所は一旦、南堀(蒲田方面)を選択。池上は池上で、いつか行こうとは思っている。

狭い緑地に、うねった道路。地図と地上の事物を付き合わせながら、歩いて行く。
アスファルトの歩道には水の流れがあったことを示すタイルが埋め込まれていて、「六郷用水物語」が続いていることをアピールしている。描かれている両矢印では上流と下流が区別できないのが若干残念。


堰の解説板2つ。この堰は川から用水を取水するものではなく、特定シーズンだけ、用水から田畑に水を取り込むためのものだ。だんだん『天穂のサクナヒメ』っぽくなってきた。


東急多摩川線と環状八号線(ラーメンで有名)の踏切には、大きな地図付きの案内板が。ここも重要ポイントか。

ここでまた分岐。1つは今までの水路と同じ方向に直進して踏切を斜め方向に渡り「蛸の手」に至るコース。もう1つは、多摩川線に沿って左側に進み蒲田駅方面に向かうコース。


これは両方回りたい。直進するコースの方が自宅から遠いので、まずはこちらへ。

蛸の手があった場所は、現在はJRの車両基地みたいなところにある。案内板を探すのに、電車と線路ばかりの、だだっ広い敷地を1周半してしまった。実は最初に到着した地点にあったのだが、今回の順路から背を向ける方向に立っていたので、見逃してしまっていたのだ。

ここで用水が複数方面に分岐していて、その様子をタコに見立てたのが由来らしい。この先の分岐を一つ一つ回るのは、さすがに面倒と言うことで、あらかじめ設定していた目標地点である。
やっと着いた、万歳!……といきたいが、自宅は蒲田駅の向こう側。歩くのも初めての場所なので、思ったほどの帰宅感はない。

しかし、車両基地なんだから『シンカリオン』っぽく、日本の新幹線勢揃いみたいな光景を見たかったのだが。なぜか(見飽きた)京浜東北線の車両しかない。日が悪かったのだろうか。


気を取り直して、先ほどの踏切のもう一方。真っ正直にたどることはせずに、ポイントだけ。実際のところ、経路上にJR京浜東北線が通っており、大田区役所がドデンと立っているので、徒歩で踏破するのは無理だ。

蒲田駅前の高層ビル(ニッセイアロマスクエア)と右側には大田区民ホール・アプリコ。

両建物を真正面に捉えるこの位置に用水の流れがあった(と聞く)。
この用水支流、たまに水が逆流してくるので、逆川(さかさがわ)と呼ばれていたのだとか。(能登川堀が正式な名前のようだ)


ここは、松竹の撮影所があった場所。逆川の、この地点にかかっていた橋は松竹橋と名付けられた。
敷地の前庭には、その橋を再現した場所がある。(水はないが)


この再現を行った後々に、本物の橋の親柱の所在が判明するという嬉しいニュース(珍事とも言う)があり、その本物は寄贈され、区民ホールの中で展示されている。単純に置き換えとしなかったのは風雨を避けるためだろうか。


歩行者に優しく、車に厳しく、湾曲させた道路。蒲田駅に自転車で行き来する際によく通る道だ。この道路の名が「さかさ川通り」であることも最近知った。さすがに、もとの川の流れのカーブを再現したものではないだろうけど。


「さかさ川通り」をちょっと「下流」にたどると、呑川(ゴジラとの古戦場)との合流地点に出る。

ここは、旧呑川と現在の呑川の流れが分岐する場所より上流にあるので、本当に当時の合流点のはずだ。周りに見える建物も、見知ったものばかり。今、帰ったよ。


そのうち、呑川の源流にも探りを入れたいなぁ。

今回の道行きの直前に購入した本。和泉多摩川から帰ってくるまでの道程は、多数のブログ、公共機関の資料、書籍などから、雑多に寄せ集めた情報を参考に決めました

2021年1月3日日曜日

実家に帰らせていただきます

母がまだ世田谷に住んでいた幼少の頃、近くを流れていた蛇崩川(じゃくずれがわ)の源流を歩いて探しに行ったという話を聞きつけた。途中で断念したらしいが。

蛇崩川!そんな厨二病っぽい地名が実在するのか!

その時私の脳裏に浮かんだイメージ(Google検索)
しかし、世間一般的に「蛇崩」と言えばこちら

母方の祖母の生家の近くなのだから知っていても良さそうなものだが、自分自身の幼少の頃、「東京」と言えばプラネタリウムがある渋谷であり、水族館がある池袋であり、科学館がある上野。田舎に住んでいる子供が東京の川などに興味を持つはずもなく。

かくして「(今は宮城に住んでいる)母親の代わりに、その実家に帰省」の開始。新型コロナがなかった昔の日本へタイムトラベルだ。


東急田園都市線・用賀駅。一度だけ利用したことがある。合宿の解散の場として。忘れていても良さそうなものだが、駅の建物が特徴的な形だったので記憶にあった。

近隣には、先日訪れた等々力渓谷を流れる谷沢川の上流がある。ちょっと歩くことになるが見に行くべきか。

迷っている間に見つけてしまった。首都高3号の下を、蓋をされずにそのまま流れているのだ。一方、用賀駅からさらに上流のほうには蓋がされている。

川の源流は馬事公苑の南東の端から弦巻5丁目あたりだったらしい。馬事公苑ってなんだ?有名な場所らしく歩道にまで馬をあしらった方向表示がある。

左の壁(北)が馬事公苑。オリンピックに向けて工事中。正面の信号を超えて奥の方(東)に流れていたらしい。信号のある交差点、南北方向は昔、品川用水が流れていたらしい。写真に撮ってみたらやたら遠くに映ってしまい、とても分かりにくいが。


弦巻○丁目の道路をまっすぐ。歩道が広いというよりはむしろ車を歓迎していない感じ。


進んだ先の大山道児童公園には、大山道を行く人のイメージ像。そして別の傍らには「蛇崩川 洗い場跡」の碑。わざわざ探しに来ないと、目にもとまらないだろうなぁ。当時の人にとっても、自分が洗い物をする場所に碑が立つとか、意味不明だろうし。


さらに歩くと、「プロムナードせせらぎ」として整備された遊歩道となる。


場所としては、世田谷区教育会館の裏手に当たる。会館はプラネタリウムを擁するわりと大規模なもの。傍らには水遊び用の人工池がある。


プロムナードの枠を形作るオブジェは、配水管を模したものばかり。蛇崩川が現在、この地下を流れる下水道となっていることに由来する(下水を流しているわけではない)。


しばし歩くとプロムナードは弦巻通りに合流して「やけに広い歩道」となる。


近隣には「駒沢給水所配水塔」という、お水大好きっ子の聖地もあるのだが、坂を登るのが嫌だったのでスルーする。
蛇崩川に限らず、(日本の法律より厳しく適用されている大自然の法則により)河川は周りより低い場所を流れる。そこから外れて寄り道することは坂道を登ることに繋がる。回避するに限る。
源流から下流に行程を定めているのも同様で、流れに逆らって遡行するのを嫌った結果だ。


弦巻通りをしばらく歩くと、その名も「蛇崩川緑道」として整備された区間に入る。そのほぼ西端に位置する小泉公園には「親水施設・せせらぎ」が。(絶賛渇水中)


緑道を歩くと、他の道路と交わるところで、当時かかっていた橋の名前が。


緑道区間。世田谷区内だけでこの数。多い…。


途中で、母の実家のあった辺りに寄り道。祖父母は他界。借家だった建物も残っておらず、今住んでいるのは全く見知らぬ他人。なので、「ああ、このあたりだ」と確認して終了。


目黒区内に入る。頑張って緑道の設備更新を進めている世田谷区に比べて、大分力が抜けた感じ。まぁ、このくらいで十分という気がしないでもない。


児童公園(地下に貯水)があり、橋の名前が残っているのは世田谷区と同じ。


長々と緑道(下水道の上)を歩いてきた。やっとこさ、蛇崩川が目黒川と合流するところに到達。今回の外出の目標地点だ。着いた、着いたよ~。
長い戦いであった。特に後半、(寺社と初詣客を避けたために)スポットらしいスポットもなかったし……。


東急の中目黒駅至近にある「合流点遊び場」。


蓋が閉じた排水口っぽいもの。雨が降ったら、ここから遊び場に水が流れてくるのだろうか。


監視カメラが目黒川の水量を見張っている。


電撃殺虫機。灯りに寄ってきた虫を高圧電流で殺す……みたいだが、肝心の部分を撮影し損ねている。


合流地点を反対側から。最近、都内は雨降ってないけど、大雨降ったらこの光景も一変するのだろう。


蛇崩川を取り上げていた雑誌。暗渠ファン的には蛇崩川の見どころは、緑道として整備されている本流より、そこから四方八方へ伸びた支流らしい。
行程が長くなるのと、(ブログに出さないにせよ)他人の家の写真を撮りまくることになりそうなので、今回は見送った。