仮説なので、近日のうちにも、遠い将来においても内容も結論もコロコロ変わりうる。そういう種類の文章であることを予めお断りしておく。
1. 現時点での解決をあきらめているという仮説
社会問題として提示されている事柄について、選挙権も経済力も持たない、行動力で大人に劣るはずの子供に希望を託すということはどのような了見であろう。私が想像するに、これは「状況を改善する知恵は、今の我々にはない。そこで、正しい問題意識を身に付けさせた子供が大人になるであろう未来まで先送りにする」ということの言い換えである。特に、他の対策の補足としてではなく、開口一番にこれを言い出す人については当てはまりそうな気がする。(気がするだけで残念ながら根拠はない)
問題のありどころが分からないまま、「なんとかしなければならない。今何か手を打たないといけない」と焦っている人もいるかもしれない。もしかしたら「この問題は待ったなしの喫緊の課題として、将来の世代に解決を託す」という論述に疑問を感じない人もいるのかもしれない。
2. 子供であれば操縦可能と考えているという仮説
他に思いつくことも無いから心がけを変えるしかない、という結論を一旦アリとする。しかし、そこで自分たち世代(今、社会を運営している当事者である)の意識を変えるではなく、子供の教育を変えることを手段とするのはどういうことなのだろうか。
心がけの問題なのに、自分の意識を変えるつもりもなければ、同世代の他の大人を説得するのもあきらめたということか。
ここで教育と言われているのは、その領域に精通する専門家を育てろという主張であるかもしれない。が、その場合は、どのような学問領域に、どのような期待をかけているのかが併せて言及されているべきであろう。
大人を説得できない道理で、子供を教育可能であるとされるのはなぜか。社会の成員として、どのような人物像が望まれているか、社会の側から提示できるからである。望まれる人物像の提示は大人に対しても可能だろうと思うが、子供は学校・家庭・地域などに縛られている度合いが大人より高い。であるから、むしろ、望ましくない考え方を排除するのに都合が良いと考えることはできるだろう。
ただし、上に挙げた教育の主体(学校・家庭・地域)のそれぞれの望みが一致していない場合、子供たちは相手によってそれぞれ異なる人物像を演じることを強いられるし、その間の相違が過ぎれば子供自身の人格が破綻しかねない。
この不幸を防ぐには、教育の主体の間で意見の統合を図るのが良いと思われる。が、残念なことに彼らの実体は既に互いの説得をあきらめて、それゆえに子供の教育に活路を見いだそうとしている大人である。積極的に不幸を防ぐ努力は見込めず、文字通りの意味で幸運を祈るしかない。
この不幸を防ぐことができなかった場合、子供としては、自らの判断で特定の教育主体を選ぶか、あるいはどの教育主体に対しても面従腹背の態度を取ることでなんとか人格の破綻を防ぐという戦略をとるしかない。それは将来‘ロクな大人になる’ことをあきらめることを意味するのかもしれないが。