2016年7月26日火曜日

ぽけもんご

自分でもちょっとやってみて、トレーナー特有の行動を把握したところで、街中のそれとおぼしき人々を観察。

私(あるいは、たまたまプレイ中でないトレーナー)が他のトレーナー(あるいは、たまたまプレイ中である人々)を見て違和感を感じるとき、私は実際には何に違和感を感じているのか。
公共の場所の中に、他人の私的な空間が突如入り込み、公共の場所が切り取られてしまったというのが実感に近い。
はた迷惑なヲタク……例えば一部の撮り鉄のような……とされる限られた人々だけが、無自覚かつ特権的に行ってきた迷惑行為が一般化したのか。確かにそんな風にも見える。

では、実際に起こっているのは、今まであまり見られなかった事態であるのか。一概にそうとも言えない。
泥酔して暴れ出す者、歩き煙草、大音量で音楽を流しながら街中をゆく車、ヘッドフォンからの音漏れ。公共の場所に私空間を持ち込む行為は枚挙に暇が無い。
むしろ、「公共」の中にいる、我々の方がこの新しい迷惑に不慣れで扱いかねているとも言える。慣れることによって、違和感それ自体は薄くなっていくだろう。

では迷惑さ、危険さを減じることはできないだろうか。
必要なものは公共心? 技術? ルール?

私自身に関して言えば、公共心にはあまり期待するところがない。
そもそも公共とはいうが、それ自体が不確実なものだ。
例えば、その昔に新興宗教系のPCショップが行っていた路上での呼び込み(この宗教団体は後に比較にならないほどの迷惑行為……事件を起こした後に壊滅させられた)。その宗教活動に関心の無い我々にとっては、私企業が行う私(わたくし)の行為だ。他方、店に所属する店員自身にとっては公(おおやけ)の行為だ。
例えば、ある系統の劇団が時折企画する、突如街中で始まる演劇。警察の許可は得ているだろうが、あずかり知らぬ通行人は驚くだろうし、そもそもがそれを意図しての企画だ。通行人に(適法かつ穏当に)迷惑をかけることで、公共と信じられていた場所を、複数のエゴが拮抗する場所に変えて、日常を破壊してみせる試みだ。
意図してのことにせよそうでないにせよ、公共そのものは相対化されうる。このようなときに、何を許して何を許さないかのよりどころになるのは公共心そのものではない。どこまでを公共とするかを規定するのは法の役目だ。

技術という面で見れば、なにかと拡張現実という言葉で説明されてきたPokémonGoだ。が、今までの考えからすると、結局拡張されている現実って何なの? とも言いたくなってくる。
現実世界に存在しない物が映る窓は手に入ったが、その窓が物理的に小さすぎて視野が狭くなってしまっている。
狭くなった視野が、その中への視線と注意の集中を求めてくる。結果、プレイヤーは自覚無く、獲物を狙う猫のように無防備な状態に陥る。
ゲームの製作者は、今までプレイヤーに没入感を与えるための工夫と研究を行ってきた。今、ここに至ってはむしろプレイヤーをゲームの中に埋没させない工夫が必要になってきている。
この没入にブレーキをかけることが技術的に難しいのなら、没入とそれに伴う危険を意識させ続けることが必要だ。

今でも語りぐさになっているバーチャルボーイ。拡張現実のずっと手前で、仮想現実を最新の技術として求めていた頃。
ゲームに没入するためには、むしろ儀式が必要だった。ゲーム機を据え置く専用の場所。外からのノイズを遮る黒いウレタンの覆い。プレイヤーの目の疲労を抑制するために、あえて赤一色とされた液晶画面。
これからゲームをするのだという明確な意志。今から始まるのは特別な時間なのだという神妙さ。否が応でもそれらを要求する機械だった。
我々は今こそかのゲーム機を物置の中から取り出すべきなのだ。

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