2006年8月21日月曜日

ゲド戦記

(以下、ネタバレ注意)


 昔好きだった原作をジブリが映画化する、というので製作発表当初は大いに期待していた。映画化の内容を聞いたり、あるいはCMで実際の映像を垣間見れるようになって、その期待も雲散したが。
 結局、原作に対する義理立て、という理由で観るだけは観ようということにした。映画を観るにあたり、原作を読み返すこともしていない。劇場で暴れだすかもしれないからだ。

 「深夜のTVでやってる萌えアニメのうち、凡庸なものを一つ選んでジブリに製作させてみたら、こんな内容になるかもしれない」

 映画を観終えて、まず最初に思いついたのがこれだった。

 アニメの映像としては全然悪くない。反面、新鮮さを感じることも、既知の技術の組み合わせの妙を感じることも無かった。過去の作品のカッコいい、あるいは美しいシーンをピックアップして作ったかのようだ。

 役者については、決して上手な人ばかり、というわけではないが、あえて欠点として挙げるほどひどくも無いと思った。まぁ、私は上手な役者は評価するけど、下手な役者が気に触るということもない、便利な観客なので。

 観ていて「こりゃヒドい」と思ったのはストーリーというか、キャラクター表現の貧弱さとか、心の動きの説明不足だ。
 例えば、登場人物同士が絆を深めていく過程がよく分からない。アレンとテルーはどうやって真の名を交し合うほど急速に信頼を深めることが出来たのだろう。
(この世界「アースシー」では真の名を教えることは即ち相手に命を預けることを意味する)

 アレンがテルーの歌を聴いて「お、ちょっとかわいいかも」と思ったとしたら、それは分からないでもないのだけど、その逆、テルーがアレンに打ち解ける理由が想像できなかった。まさか、ジャイアンみたいに「歌を聴いてくれる人=心の友」という図式があるわけでもあるまい。
 むしろ、私自身が何か重要なシーンを見落としている可能性が高い。そうでなければスタッフが重要なシーンを描き忘れているのか、だ。いっそ「テルーはツンデレ」で説明の代替とするか。(最初に思いついた形容が前述「萌えアニメ」であったのは、この辺りの描写に感じた不自然さに由来すると思う)
 もちろん、ここに非モテ系の僻み妬み、あるいは無知が含まれていないとは言わない。この謎が解けることで多少なりとも女性の気持ちが分かるのだ…という話でもあれば、ぜひもう一度劇場に足を運びたい。

 アレンが冒頭で罪を犯したり、その後贖罪の旅に…という件も、ひどく軽い、というか、まるでどうでもいい事柄であるかのように扱われているような気がした。
 ゲドとクモの対立点も特にストーリーの本筋に絡んでいるのか良く分からないうちに終わってしまった。

 冒頭で『エアの創造』を引用する一方で、この映画、人間の二面性とか、その間の葛藤とかをきちんと描こうとしていないような気がする。
 気がする、というのは「作り手の側にその意思が無かった」と断言するところまで至らないからだ。作り手は(私には伝わりがたい何らかの形で)それを描いていたのかもしれない。
 結局、映画の中で何が描かれ、あるいは何が描かれていなかったかが良く分からなかった、というのが私の感想だ。

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